昭和48年06月15日 石井家 霊祭



 おかげを頂きました。まぁ今日のお祭りを、皆の真心と言うか思いと言うか、いっぱいで仕えたけれど。まぁ一口で言うと、はらはらするお祭りだったです。もう本当にあの、側が持てんち言うぐらいに、はらはらするお祭りだったけれども、大変味わいのある、とにかく、味わいのあるお祭りだったと言う事でしょうね。これで一つはらはらさせんで。そしてこのお祭りが出来ると言う事が、これからの信心だと思うね。
 今朝からあの頂きますように、あの拝む者は拝まれ、尊ぶ者は尊ばれる。これはもう絶対なんです。だから形じゃなくて本当にね、あのその人を拝んでは、必ずその人が拝んでくれるようになるよ、形じゃなくて。本当にお金を、本当に尊んでごらん、もう絶対金から尊ばれる人になるよね。こりゃもう大真理だからね。今朝そう言う様な御理解頂いて、今日の御霊様、それから次にはね、あのもう何ていうですか、マイホームという、最近言葉があるね。
 あの石井の御霊様なんか、特にそのマイホーム的なおかげだけは、もう本当に頂いてあるという事を感じたね。いわゆるご自身だけは、楽におかげを頂いておられるという感じです。これは多少においても同じことです。ですからね問題はだから、こちらの信心如何によって、その私共のほんなら信心が、ただ自分方だけがおかげ頂いて行けば、それで良いというのじゃなくて、自分の助かりが、溢れてきておる。
 そしてそれが自他共に助かっていくという。いわゆるあいよかけよの助かりと言うのが、天地金乃神様の願いなのですから。そういう神様の願いに応えていく、私は信心だと思うですね。大体は十六日が月の日だったかね、お婆ちゃんは。あぁ十七日だったかね。けどもあの久保山の都合で今日にお許しを頂いて、このお祭りが出来たけれども。そこにやっぱりこの本当の神ながらのと言う事は、その印を見せて下さると言う事はね。
 今日は私はあの、一時からのお祭りかと思うておるところへ、箱崎教会から電話がかかってきた。一時半から初代の先生の委員の方たちが集まられるから、是非来て欲しいと言うて、電話が架かってきたという。だから実はこうこうだから、お祭り済ませてすぐ行くからと言うのですから、このお祭りは滞りなく終わられたけど、ほんならお祭りが済んだら、すぐほんならあちらへ行かんなんといった、この辺の所がね、やはりあの神ながらの方の違いをはっきり、今日は見せて頂いたような気がする。
 この頃秋山さんの所に行って、霊祭をした時に、ただ謝恩祭に合わせてという、その二かいっかの事が、神の機感に叶わんと、こう言う様な御理解を頂いたね。ですからもう信心ちゃ私はそうだと思うね。例えばもう大ごつじゃけん、一緒にしようと言った様なものであったり、また本当いうたら、もう神ながらなあり方で、おかげを頂くことが信心だと言う事。けども私共にも都合があるから、二かいっかの場合もあるし、私共の都合があるから、日にちを変更してもらうと言う様な事もあるんだけれども。
 本当はそれをいわば尊び、本当に有難きと言う信心で行くと、そこ辺の所が段々お繰り合わせ頂いていくようになる。まぁ何とはなしにね、はらはらするというのである。けれどもおかげで出来たと、はらはらしながらね。あの一番最後にあのお饅頭のお供えがあったでしょう。あれをふっとこう、他の御霊様達に配られるとこを頂いて。本当にどうもご迷惑をかけました。
 もう本当に、おかげで出来ましたちいう様な感じだったんです。それがどう言う事かというと、あの破れ饅頭ち言うのはね。あのはらはらする時のことに使うでしょうが。側が持てんち言うのが破れ饅頭。もう側のほうが、いらいらするくらいにあった。けれどもね、まぁ食べてみると何とも言えん、こう味が露出しておってね、美味しいというそういうお祭りでした。そういうお祭りを今日は奉仕させて頂いた。
 そしてもう繰り返し頂くのはね。今朝から私はあのこれは、今朝からの御理解を、ある先生にお手紙を出すために、書いとったのをね、私は清書させてイタダイトッタんですこれを。そしたらね、そしたらあのこら手紙じゃないです。あの御理解を、その先生に届けてやりたいと。そしたらこのことをしきりに頂くと。この後から信司さんに上げますから、どうぞ一つ味わって下さい。
 「人の世に生まれ、五十年あるいは八十年、営々として衣食のためにのみ働き、何一つ取り上げることの出来ぬような事で、この世を過ぎて行くのだと言う事を感じた時、夢のごとく幻のごとく、この一生を過ごしてきたのだと思う時、いよいよ淋しい、悲しい思いに襲われる事であろう。神の願いを明らかにし、永遠の願いに生き目覚めよ、今天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。このこと一つを明らかにするために、この世に生を受けたのだと言う事が、はっきりとすると、飛び立つばかりの喜びが湧いてくるのです。」と言うのです。
 もうこれはね、だから何十年信心しておっても、ここんところを目指して、飛び立つほどしの心で、信心が出来るようになるためなんです。それはほんなら、どう言う事かと言うとね。ほんなら今天地の開ける音を聞いて、目を覚ますと言う事は、このこと一つを明らかにするために、この世に生れてきたんだと。このことを明らかにするために。それをもう少し具体的に言うと、今綾部さんがお参りして見えておったが、私どんがこの世に生を受けたと言う事は。
 大変なことであって、これは仏教的に言うと、何百年何千年の後、また人間に生まれ変わってくるか来ないか分からない。こら助かっていない人の姿ね。例えば牛に生まれ変わったり、馬に生まれ変わったりしながら。もうそれこそ天文学的な数字を経てね。そしてようやくこの世に、人間として生を受けた、その人間がです。それこそただあのここの衣食のために働きね。何一つ取り上げることの出来ぬような事で、この世を過ぎて行くのだという事を感じた時。
 それこそ自分がいよいよ晩年、いよいよ終着駅に近付いた時に、はぁ私は一生何をしてきただろうかと思う時に、それはもう本当に夢だったか、幻だったかと言う様な事で終わるのです。そしてその淋しい悲しい思いをそのまま持って行く。またあちらで苦労して、また生まれ変わってきて、またこの事に取り組まなければならない。だからこの事に取り組む事の為に、いうならば魂を本気で、この世で清める事の為に。
 そして信心して、おかげを受けてくれよと言うのは、この世でおかげを受けると言う事と同時にあの世でも、おかげを受けてくれよと言う事のために、私共はこの世に生を受けたなどと言う事がはっきりすると。だから話を聞けば今でも分かる。けれども心からね。ほんにそうだというふうに分かった時です。例えばその話しを私が、綾部さんと控え所でしよる時にね、あのその控え所が、バーンと響きかえるようなオイサミでしたよ。如何に私共がこの世に魂を清めにきとるとかと言う事が分かるです。
 そのための手始めとしてね。一つ本気で拝めと。拝む者は拝む一切をね。本当に敵と思うておった人でも、拝みよるとそのおかげでと言うものが、必ず生れてくるね。同時に尊べ尊べば必ず尊ばれる。そのほんなら第一のものが、私はご先祖だと思うですね。もうご先祖を本当、日々のね、生活の中にそれこそ清い水のいっぱいでも良い。濃ゆいお茶のいっぱいでも良い。あのそのいっぱいのお茶とか。
 いっぱいのお水を通して、私は尊ぶ印を見せていかなければいけんと思う先祖に。これはあのあんた達でもね、自分の言うならば、部屋があるなら、箪笥のめっかっちゃいかんなら、開き戸の中でも、私は良いと思うよ。あの自分の思いをね、日々尊ぶ印を見せていくという。私はもう本当にそれを思うですね。お賽銭十円づつでん良いですね。これが尊ぶ印と思うて、あのいうならば印を現していく。
 それが絶対また尊ばれる元になるという事。拝む者は拝まれ、尊ぶ者は尊ばれるおかげを頂かせて貰う。金光大神は、その尊ばれる道だけを、実は教えられておるようですよね。ですから今日の御霊様のお祭り。これはまぁ、乱筆で読み難いでしょうけれども。まぁこれは神様の願い、御霊様の願いと思うて、一つおかげを頂いて下さい。どうもおかげを頂いて有難うございました。